百済の都だった扶余 / プヨ
大韓民国忠清南道にある扶余 / プヨは、538年から660年にかけての123年間、百済王国の都だった都市です。538年に第26代 聖王(聖明王)が、この地に遷都。仏教文化が開き、日本に仏教が伝来したのも、この当時のいことです。
660年に唐・新羅連合軍によって百済は滅亡しますが、扶蘇山城の目下には、白馬江がゆっくりと流れ、歴史の風情を感じさせます。なお、扶余は、奈良県高市郡明日香村と福岡県太宰府市と姉妹都市の関係にあります。
忠清南道 / チュンチョムナムに旅行予定で、ホテルの予約がまだの方は、最大75%OFFのホテル・リストをチェック!
[ad#Adsense 336 280]最新! 扶余旅行記 リンク集
扶余の旅行・観光スポット
- 国立扶餘博物館
- 1945年に国立博物館扶餘分館として設置され、1971年に新館が開館。1975年には、国立扶餘博物館に昇格しています。1993年に金城山に移転して今日に至っています。展示物の目玉の一つに、扶余の陵山里遺跡(井戸の中)から発掘された大香炉があります。 高さ62cm、重さ11.8kgにもなるこの大香炉は、龍の台座に満開の蓮の花、蓋の部分は山並みに釣人、象に乗る人、そして最上部はには鳳凰が象られており、当時の東アジア最大の傑作の一つと言われています。
- 扶蘇山城
- 白馬江(錦江の別名)を見下ろすような位置にある、百済時代の扶蘇山城があった場所です。
- 王宮跡
- 扶蘇山の南側一帯。
- 定林寺跡
- 百済後期の中心的寺院です。調査によると金堂や回廊が並ぶ壮大な寺院であったと推測されていますが、現在は国宝の五層石塔、そして高麗時代の石仏が残るのみです。中国南朝の梁は541年に仏典や画家などを百済に送ったとの記録があり、梁からの技術者が新しい都にふさわしい施設として造ったと考えられています。
- 落花岩
- 百済滅亡時に、宮女が投身したと言われ、落花(落下)岩と名づけられた伝説がある岩です。近くには白馬江が流れ、風情のある風景が広が手居ます。
- 百済文化祭
- かつて百済の都があった扶餘と公州が、交代で毎年10月6日から9日まで開催するお祭りです。